なぜ日本人は「異端であること」がカッコいいと思うのか?

日本では「人と違うこと」、「出る杭になること」つまり、「異端であること」がカッコいいとよく言われている。

しかし、僕はこの感覚にすごく違和感を感じてしまう。「異端であること」がカッコいいと感じるのは、悪いことではないか?なぜなら、その感覚を受け入れてしまう人は「異端であること」だけにこだわってしまうからだ。なぜ、日本人は異端であることがカッコいいと思ってしまうのか?その原因に軽く触れながら、本来あるべきカッコいいの形を提案できればと思っています。

カッコいいとは何か?

平野啓一郎さんの「カッコいいとは何か?」にも記載されていたが、日本のかっこいいは西洋のインディビジュアリズムを根底に置いているようだ。
この記載には、僕も非常に納得していて、日本の場合は西洋文化を無意識的にかっこいいと思う傾向がある。それは、時に正しい時もあるかもしれないが、僕たちは僕たちのかっこいいがあるはずだ。
そこで、異端という言葉を再定義したいと思う。僕の異端の定義は「毎日の誠実さの積み重ね」によって生まれるものだと考えられる。
つまり、何か突拍子のないことをいきなりやることを異端であるとは感じない。
圧倒的なインパクトを残せる可能性もなきにしもあらずだが、多くの人が模倣すべき異端ではないんじゃないかな。

多くの人が模倣すべき異端は「日々、自分が決めたことを何十年もやり続ける異端さ」だと思う。それであれば、どんなに小さなことでも異端さを表現することができるだろう。

つまり、この文章を通して僕が伝えたい主張は、突拍子のない異端を生み出すことは考えずに、何十年も誠実に続ける姿勢を異端と思うべきじゃないかということです。

最後に

だからこそ、今一度自らがどんな人生を歩もうか?そして、どんな仕事をしていこうか、を考えるべきだと思います。なぜなら、日常の積み重ねの中に異端さは自然と溢れてでしまうから。何か参考になれば幸いです。

今日も最後まで読んでくださってありがとうございます