「天気の子」を観て「世の中は冷たくなった」と感じた

天気の子」はすごくすごく周りからの評価が高い。だからその影響もあって、僕も今日、品川で21時半から「天気の子」を観た。

もちろん、評価が高いだけではなく僕は、川村元気というプロデューサーが大好きでそして新海誠監督も大好きだ。合わせて、以前「君の名は。」の時に行われたイベントに参加した時の記事をここに貼っておく。

参考:“君の名は”新海誠監督と川村元気プロデューサーに「作品作りにそれほどまでの情熱を注ぐことができる原体験はなんですか?」と聞きました

ところで、僕は「天気の子」を観て少し悲しい気持ちになった。良い映画ではあるのだが、世の中に対して悲しくなったのだ。

周りが見えなくなるほど人を愛する重要性

この映画が終わった後、彼女に「主人公がたっけ(俺)みたいだって映画観ながら思った」と告げられた。まさに、俺も同じことを主人公のほだかに抱いていた。

つまり、映画内でのほだかの行動は僕の行動基準とほぼ同じだった。好きな人のためだったら周りを見ずに、世の中がどうなろうと守りたい。そんな強い想いを持ちながら僕も生きている。

だから、ほだかの行動から新しい発見がなかったのだ。それは、1つ悲しいポイントだった。なぜなら、映画を観ると必ず「あたらしい発見」を1つ見つけたいからだ。

さらに、もう1つ悲しいことがある。あ、ところでみなさんは、川村元気さんが「集合的無意識」を大切にしていることを知っているだろうか?

集合的無意識とは、世の中の人たちが大事だと思っているけれど、現実世界にはまだ現れていない指針のようなもの。つまり、多くの人が「あ、それそれ」と頷いたり、共感したりするものだ。

例えば、川村元気さんが以前おっしゃっていたのが、「駅前にくまのぬいぐるみが転がっていたことがあって、それにみんな気づいているのに、みんな拾って元どおりにしないのです。それを元どおりにしないのはおかしいよな。と子供ながらに思っていたと

では「天気の子」の場合、その集合的無意識が何にあたるかというと、僕なりの考えを述べさせてもらう。たぶん、この映画の集合的無意識は「SNS社会の浸透で、あまりにも物事に対する傍観者が増えすぎた。外部の人が一つの事象に対して、言葉にして評価するだけで、手を差し伸べて行動を起こす人が減ってしまった」ということだと思う。つまり、「世の中は冷たくなった」ってことだ。

そして、日頃からSNSを駆使している自分だからこそ、上記のような光景を見る。誰か1人が失敗をしてもただ見て見ぬ振り。ましてや、その人に対して誹謗中傷まで行ってしまう。確かに、以前のように本当に困っている人に対して手を差し伸べる人は減ってしまった。

だから、俺が予想する「天気の子」の集合的無意識が上記のことにあたるのであれば、世の中は冷たくなったなと感じて、悲しくなったのである。

最後に

温かい人間が減ってしまっている現実は悲しい。もしかしたら、自分も冷たい人間の部類に思われているかもしれない。しかし、彼女に「ほだかみたいだった」って言われたのは嬉しかった。ああ、本当に雨なんかに負けないくらい、あったかい人間でありたいものだ。

たしかに「天気の子」は「自分の世の中への物差し」と「世間の人の世の中への物差し」が違うことを突きつけてくれたのかもしれない。なお、感想としてこのブログでは述べたが、実際に「天気の子」について議論したいとも強く思った。

 

最後まで読んでくれてありがとうございます。あと一言だけ。この映画を観てSMAPの「Triangle」という曲を思い出さずにはいられなかった。