多くの人が「刺激的な人生を送っている人」に憧れている。でも、本当に人生に「刺激」は必要か?今日はそんなことを考えてみようと思う。刺激は「他人への嫉妬心を生み出すモノ」でもあるだろう。
刺激がなければ頑張れない?
「刺激がなければ頑張れない」のは、人間として弱い気がする。一見、刺激的な人生を送っている人は多くの場合、刺激を感じているわけではないのだと思う。多くの人にとって、刺激的なことだけれど普段、自らを平然に保つべく「習慣」があるからこそ、刺激に打ち勝てる。
しかし、習慣がなければ刺激だけを求めてしまい、その刺激により、自らをダメにしてしまう。刺激というものは怖い。刺激というのは、自らを鼓舞するために「仮想敵」を生み出しやすい。
常に刺激を求めるということは自分の中に「行動基準や判断基準」がないということになる。自らを鼓舞立てるために「他」を求めるのは、健全な人生を歩む上で余計なことだと、僕は思う。
刺激ではなく、何が必要か?
さっきも伝えたが、自らの「行動基準や判断基準」だ。それは他者に与えられるものではない。だから、僕はメディアの人間だとしても「正解」は伝えられない。自分なりの納得感を保つための「問い」を与えることしかできない。というか、正解を教えるなんておこがましい。土足で人の家に入って、好きなだけ人の家の飯を食べるようなものだ。
「刺激」は良き人生を作るうえで邪魔をしやすいと考えている。
そうは言っても「君は刺激を初めから求めなかったのか?」と言われると嘘になる。でも刺激がなくても頑張れるようになった。なぜなら「健やかな習慣」を生み出せたからだ。
今および今後、僕が大事にすることは、こんなことだ。
1,毎日20分走ること
2,仕事はスピードより丁寧さ
3,簿記やプログラミングを毎日する(間違いが許されないので、丁寧に取り組む習慣ができる)
最後に
特に刺激は必要なくて、淡々と毎日自分との約束を守り続けられたら幸せ。たまに無理な要求を自ら受け入れて、乗り越えていくくらいがちょうどいい。毎日が刺激的であったら人間もたない。どこかに綻びが出てきてしまう。
— たっけ💐🤗🔥 (@takeee814) July 16, 2019
大きな傷は修復するのが難しい。少しくらいの綻びならすぐに癒えるだろう。自らを労わりながら、生きていこうじゃないか。最後まで読んでくださってありがとうございます。